動物化するポストモダン 東浩紀
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しかしそれならば、逆に、オタクたちはなぜ「日本的なもの」に前述のように固執してきたのだろうか。ここで想起しなければならないのは、オタク系文化の起源はじつは、アニメにしろ、特撮にしろ、SFにしろ、コンピュータ・ゲームにしろ、そしてそれらすべてを支える雑誌文化にしろ、戦後、五〇年代から七〇年代にかけてアメリカから輸入されたサブカルチャーだったという事実である。オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史だったのであり、その歩みは高度経済成長期のイデオロギーをみごとに反映してもいる。したがって、もしいま私たちがアニメや特撮の画面構成に日本的な美学を見てしまうのだとすれば、そのときは同時に、つい数十年前までこの国にはアニメや特撮はなかったのであり、それが「日本的」になった過程はかなりねじれたものだったこともまた思い起こしておく必要がある。オタクたちは確かに江戸文化の継承者なのかもしれないが、その両者は決して連続していない。オタクと日本のあいだには、アメリカがはさまっているのだ。 したがって筆者は本章では、この二点を前提としたうえで、つぎのような二つの疑問を導きの糸として、オタ
ク系文化の、ひいてはそこに凝縮されたポストモダン社会の特徴について考察を進めていこうと思う。その二つの疑問とは、(1)ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加する。それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか?近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すのは何ものなのか?
(2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、 「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか?近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?である。
公共性の外部に放逐されたヒトを「動物」的
公共性(公共空間、公共的領域)が確保されること